創業時の志を今こそ。
FLY TO MATSUZAKI SPIRIT
創業時からの優秀な技術者であった「今泉 末」が考案した裁断方法。
日本の服作りにおける先駆者としての証、それが掲載された専門誌が国立国会図書館に眠っている。先人がなしてきた偉業、そして創業のスピリットをご紹介します。
松﨑祐治郎(助次郎)
業界からは儲けにならない雑誌に力を入れて、と陰で笑っている人がいたようです。
「私は此の雑誌によって、我が国の流行を正しく導いていきたい。これが国家に対する大きなご奉公である。」
「何故ならば流行は単に流行としてのみ生じてくるのではなく、大きく言えば、国家の政治の上にも流行のもたらす経済的結果を反映し、或いはまた国策として流行は国家の経済を動かす力さえ伴っているからである」
損得を問うところではない。私は儲ける方は別に道を持っている
ルーツを探す旅の原点には一冊の専門誌がありました。それは1936年(昭和11年)に洋裁研究社から松崎が引き継いで発刊した「洋裁研究」です。その後「テイラア」「テイラー」と名前を変えるこの専門誌は、創業者・松﨑助治郎の志の高さを物語っています。
生地内容は型紙(パターン)の紹介がメイン。毎月発刊され、各号でファッション提案をしています。挿絵もカラーで印刷され、今の雑誌と比べてもかなりのクオリティを誇ります。驚きは、スーツだけでなく、ゴルフスタイル、海辺のモードまでも網羅していること。
また、女性服や男女の髪型までも紹介されています。さらには今とおなじような街でのスナップ写真も掲載されており、「国際港神戸の横顔」や「銀座の流行」「ファッション速報」などの記事が紙面を飾っています。
「洋服物語」や「映画女優」など小説、経営アドバイスまで読めるという、当時でも先進的で画期的なライフスタイルマガジンであることがわかります。
国の状態が戦争に向いて来ると、政府の国民精神総動員運動に参加の中央連盟の趣旨普及の一翼たらんとして「国民服の立案・製図」懸賞応募も行っています。
当時の記事では「非常時下店主と店員の協力」「代用品と服飾」という記事も。その後、戦時色が強まり「全服」と改題され、1941年(昭和16年8月)「時局下、物資の関係よりして今回、自発的に一時廃刊致すことになりました」の挨拶文とともに廃刊されました。
メイン記事である「型紙」の紹介。服作りの設計図ともいえるパターンを考案していたのが、松崎のスタッフの中でも群を抜いた技術を持ち、研究熱心な今 泉 末、その人でした。
当時一般的だった「短寸式」に対して「胸寸式」を考案。バストサイズを基本として各パーツのサイズを割り出しました。
今 泉 末が残した膨大な実績は3冊の専門書となって、国立国会図書館に蔵書されています。「裁断基礎研究」に『人にはいろいろの主張があります。
私の主張をもってしますと、洋服は、あくまで恰好がよくなければならぬと思います。しかし、私のいう恰好のよい洋服とは決して、身体にぴったり合っている洋服という意味ではございません。
単に身体に合っている洋服は、文字で申しますと活字のようなもので、ただ無難であるというにすぎません。
今日から後の注文洋服は、そんな消極的な個性美の乏しいものでは駄目だと思います。』と、記載しています。
当時から仕立ての技術だけでなく、デザイン、スタイルに強い関心が有る事がわかります。
そして、新たな発想やアイデアを込めたパターンが投稿した米国で発行されていた専門誌「American Gentleman and Sartorial Art Journal」に掲載されました。(米国 Washington D.C.にあるThe Library of Congress に保管されています)
創業者 助治郎の義兄弟
昭和9年・裁断基礎研究(松崎洋服店技術部発行 今 泉 末著)、昭和10年・松崎式裁断全書(松崎洋服店技術部発行 今 泉 末著)、昭和15年・洋服の裁断と補正(洋裁研究社発行 松﨑裕次郎発行者)が発刊されており、国立国会図書館の書誌目録に記載されています。
今 泉 末は、米国の専門誌(American Gentleman and Sartorial Art Journal)に投稿し、7回掲載されました。このときに今の松崎の基礎が出来、その後、裁断技術が松原正巳、近藤正巳、依田弘、高山寛、渡辺正照、鈴木朋祐、縫製技術が、樽原、羽浂好伸、安倍三郎、木村吉典、渡部忍、日下部利樹と引き継がれています。
その他